kiuelの節操ない読書歴

興味あるもの、なんでも食らいつく

【ベートーヴェンが読んだ本】読書欲、知識欲がハンパない!前編

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いやぁ~、待ってました!読書とベートーヴェン好きの私にとって、いつこのような本が世に出るのかとー。生誕250年にして”やっと”感があります……。

200周年の1970年代には、なぜかなかったですね。欧米で出版された研究本の翻訳はけっこうたくさん出て、私も読みまくっていましたが、(今回紹介する本書で分かったのですが)中にはベートーヴェンが所蔵していた書籍についての研究本もあったのです。でもそれが翻訳された形跡はありません。

紹介する本書はそれらを含めたいろいろな研究本を精査し、著者がまとめたものです。

ベートーヴェンは一体どんな本を読んでいたのでしょうか?

ブログに取り上げただけでも結構な内容になってしまったので、今回は前編・中編・後編に分けて紹介したいと思います。

 書籍データ

ベートーヴェンが読んだ本】藤田俊之 幻冬舎メディアコンサルティング 2020年2月20日初版

私はこの書籍のラインナップを見て、自分の蔵書がただ”自分の楽しみ”だけで選んでいたのに気づきました……。恥ずかしいです😓

ベートーヴェンは手紙か何かで”芸術家は(特に読書から)常に勉強して己を高めなくてはならない。それを怠るものは、芸術家として怠慢だ”というようなことを言っています。

著者の藤田さんも、彼は読書欲が強く「読書量は筆者の想像をはるかに超えるもの」と驚かれています。

私は自分の”ほしいものリスト”を見直しました……。

そう、ベートーヴェンの読書は、ほとんど勉学自己思想の指針の発見のためだったと言えます。

勉学は当然音楽に関してが多いですが、発見の方はどうか?藤田さんは1つのキーワードを提示します。啓蒙思想です。

本書はベートーヴェンが明らかに蔵書していたであろう書籍(雑誌も含む)から、彼自身の抜き書きやドックイヤーされたページの引用を中心に紹介されています。

“であろう”と曖昧なのは、遺品から見つからなかったものの、さまざまな資料から明らかに読んでいたと確信できるものも含まれているからです。そりゃ”引っ越し魔”だった彼が生涯すべての蔵書を持って歩くことは、ムリっ!でしょう😆

ベートーヴェンはきちんと(そして当然に)アウトプットしていて「読んだ本の重要な個所を日記帳などに丁寧に抜書きしたり目印等で自らに注意喚起している」と、それを藤田さんは「特筆すべき」としています。会話帳にも話し相手に書名や著者名、引用文など(正確ではなく、彼自身がアレンジしたと思われるものも)が書きつけられています。

それぞれの著者についても、略歴が紹介されていてだいたい人となりも分かるようになっています。有名な人物はリンクを貼ってそちらで確認してもらい、貼れない場合は本書から簡単に引用しています。

本書構成は内容と、著者の職業別に分かれていて、これを見ると「文豪、詩人」が多いです。だからと言ってベートーヴェンがこの分野に偏って多く読んでいた、ということにはならないです。

藤田さんは「〔自分は〕音楽の専門家ではない(略)本書の目的は、ベートーヴェン世界精神を醸成した、音楽以外の一般著書が中心となる」と言われているので、こういう構成になったのでしょう。

藤田さんは「ベートーヴェン読書欲・知識欲によって、彼の精神の成長が育まれ、ひいてはそれが彼自身の音楽芸術に対して直接・間接的に大きな影響を与えたのではないかと愚考する」といいますが愚考じゃありません。それはベートーヴェンの生き方と、読んでいた本を見れば感じられるところです。

作家・詩人

本書では「文豪」となっていますが、はっきり言ってそうじゃない人もいるので、ブログでは“作家”とさせていただきます。トップバッターは“世界の文豪”のこの人です。

ゲーテ彼とベートーヴェン1812年に3度だけ邂逅しています。その辺の詳しいことは、べ-トーヴェン伝などに載っているのでここでは省略しますが、この出会いが少なくともゲーテにある種の“影響”を与えたのは間違いなさそうです。この後、彼はベートーヴェンを”避ける”からです。

ベートーヴェンゲーテに何通か手紙を書いていますが、ゲーテは分かっているだけで1通だけです。しかも、邂逅後はベートーヴェンの手紙に対して"無反応”です。

ベートーヴェンが亡くなって3年後に、メンデルスゾーンは81歳のゲーテに、ベートーヴェンの曲を弾いて聴かせたといいます。そのときのゲーテの反応は……『そりゃ、ちっとも感動させやしない』と言いつつ『実に雄大だ!』と言ったといいます。

私にはゲーテは"恐怖感”を抱いていたと思うのです。なんか表現しようのない、しかし明らかに実在する“巨大すぎる何か”によって。

ゲーテは邂逅後、妻にあて手紙を書いていますが、ベートーヴェンについて『残念なことに、彼は異常に自由奔放な性格の持ち主です。彼が世の中を嫌悪する気持ちは間違ってはいないが、しかしそれによって自分自身のみならず他人にとっても世の中を楽しいものには出来ないでしょう』聴覚の不備に同情しつつも、こう述べているのは、ゲーテの世の中とのかかわり方も示していて、興味深いです。

一方、ベートーヴェンは『詩人としてふさわしからぬほどに、宮廷の雰囲気を楽しみすぎています』とある手紙に書いています。

こうなっちゃうとソリが合わないということで、それっきりになっちゃうんですが、ベートーヴェンは違いました。

藤田さんは「文豪ゲーテに対してベートーヴェンは生涯変わらず畏敬の念を抱いていた。その事実は彼の手紙や会話帳で実証されている」。

ある手紙には『〔ゲーテ〕のためなら、私は10回以上死んでもいいところだ〔!〕。あのカールスバート〔ゲーテベートーヴェンが出会った場所〕の夏以来、私は毎日のようにゲーテを読んでいます』。

出会いから10年以上経過した後も、ゲーテに手紙を書いたベートーヴェン。尊敬と愛を寄せ続けていたんです。

さてベートーヴェンが遺したゲーテ本には、『ゲーテ全集、24巻(その中の数冊はダブっている)』ウィーン、1811年(彼は再販です)。そして『西東詩集』。この詩集をご紹介します。

ベートーヴェンが持っていたのは、「ウィーンで手に入りやすかったアルムブルスター・ゴッタ社の1820年出版」のものです。その中からいくつか引用します。

本のうちで最も驚くべき本は、愛の書である
私は心をとめてそれを読んだ
わずか数ページの喜び、全巻にみちる悲しみ、
別離は一章をなし、再会は短い一節で
(略)
解きがたいもの それを解くのは誰か、再会する愛人同士(??!!)

最後の符号は原文にはないので、ベートーヴェン自ら付けたと思われます(このつけ方が彼らしく思います😑)。この符号を、かの”不滅の恋人”と連想する研究者もいます。果たしてどうなのでしょうか。

傲慢なる胸より友情は生まれず、下賤の徒輩は不遜なり
悪漢は偉大に達することなし、妬みぶかきものは弱点を憫れまず
虚言者は真実と信仰を望むも益なし、
この事を心に銘し、またひとに奪われて失うことなかれ
(この文にはすべて下線が引かれています)

ここからはゲーテ自身が、詩集をより理解しやすいように書き加えたものです。

すなわち、はじめは人生のうちに崇高の理念を探しあてて満足していた彼〔頌歌詩人サナイー〕が、その理念を、現世を超えた彼方に見いだすことを学び知ると、君主の頌美者から一変して、神と永遠なる完全性とにのみ感動する歌人となったのである

これはベートーヴェンの創作理念に共通する部分を感じました。

次は藤田さん曰く「ゲーテの言葉に対してベートーヴェンが明白に異議を唱えている個所があるのは興味深い」ところです。

謙抑(謙虚)はいつも扮装と結びついていて一種の阿諛(あゆ、おもねる)ともなり、この種の阿諛がひとしお有効であるゆえんは、相手がいい気持ちな自意識に安住しているのをひっかきまわさず、つまりは押売りでなしに善を施すからである。すぐれた協同と呼ばれるものはすべて、いよいよますます自己を否定することにその本質があるので、協同は究極においてはまったくの空となる。―

最初の文にベートーヴェンは否定をする意味で"nego"と書いています。さらに「すぐれた協同―空となる」には強く線を引いて抹消しています。

ベートーヴェンはときおり手紙などで、”巨匠”らしからぬ謙虚さを示しています。まるで一昔前の日本人みたいです。でもそれは「おもねる」ためではもちろんなく、「自己否定」のためでももちろんなかったはず。この辺もゲーテベートーヴェンの社会(人)に対する接し方の違いが出てますね。

ただギリシャ人だけは、国内的に不統一だったにもかかわらず、結束して、数度侵攻してきた大軍に抵抗し、爾余(じよ、それ以外)一切の徳を包摂する最初にして最後の得なる模範的な犠牲の精神を発揚した

 古代ギリシアに寄せる憧れと尊敬の念が、この文に注目させたと思います(ギリシャ関係の書籍については後編で)。

藤田さんはふたりの類似点と相違点をまとめています。共通点は「『生に対する肯定』の一語に尽きる」。ただしその過程はまったく異なる、それは今まで見てきたことでも明らかとします。

特にベートーヴェンの場合、この「一語」に至る人生は凄まじいほどの葛藤と強靭な精神力を要した事実は議論の余地がない

ゲーテは“世界の文豪”だけど、「ドイツ国民の一リーダー」(ワイマール公国の枢密顧問官)として「物心両面の中心に位置するものはあくまでもドイツであった」のに対し、

一般市民としてのベートーヴェンは、世界の異なった文化を吸収することで視野を広げながら、特に精神分野においてそれぞれの文化圏に足場を見つけながら、次第に自らの世界観を拡大・展開していったのである 

「異なった文化」を吸収するために、膨大な読書量になったともいえるし、非凡な「読書欲・学習欲」は、違う文化を知りたいということにつながり、「世界観を拡大・展開」する原動力になったのかもしれません。

シラー言わずと知れた第九の合唱の歌詞の“作詞者”です。第九はベートーヴェン生涯抱き続けた自由・平等・博愛、啓蒙思想の結実です。本書を読んで、改めて確認できました。

”生涯変わらなかった”ところがポイントで、原作者のシラーは「変心」するからです。

シラーやゲーテ等ドイツの文豪が、いわば時代環境に適応した精神を選択するなかで、ひとりベートーヴェン当時の社会環境に迎合することなく反動の世の中に敢然と立ち向かい、約30年前のボン時代に読んだシラーの初版の詩の精神を忘れることはなかった

 さらに藤田さんは「生まれ故郷のドイツの柵を超え、第二の故郷オーストリアも飛び越えて、世界精神を獲得し、それを統合して作品にした」と分析しています。

そういえば、第二次世界大戦の時、“敵国ドイツ”の音楽を聴くことを禁止していたアメリカで、空軍のパイロットは戦闘中《運命》を流していたと聞いたことがあります。”ベートーヴェンは別だ”ということだったらしいですが、ここに“世界の音楽“になっていた証拠を見ます。でも、平和な時の方が全然いいんですがね……。

私はシラーの「変心」が悪いとは言いません。ゲーテが言うように、そのほうが周りの人びとも幸せだろうし、世の中が良くなるように動いていく、と考える人もいます。人生の中で考え方が変わるなんてよくあります。

だからこそベートーヴェンは”驚異”な人なんです。

彼が持っていたシラー作品は、『シラー全集、第六巻』ウィーン1810年(代表作『オルレアンの処女』『ヴィルヘルム・テル』を含む)と、『シラー全集、各種版本21冊、銅版本3冊』 1824年。

しかし何といっても「歓喜に寄せて」でしょう!

直前の引用に「初版の詩の精神」とありましたが、シラーは実はこの詩を改変しています。 

この詩は1785年に作られ、87年に「ライニッシュ・タリーア」という雑誌に発表されました。ベートーヴェンはこの雑誌を読んだのでしょうか。

そして1803年に書き直されています。第九節までありましたが、その第九節は完全に削除されています。確かに「暴君」「絞首台」「地獄は消えうせろ」「死刑宣告官」など、なんか生々しい字句が多いです。当時のシラーの感覚と合わなくなっていたんですね。ちなみに「死刑宣告官」をベートーヴェンは「星空宣告官」と書き換えているそうです。この方が美しいですね。

『シラーの初心を生かし』第九の歌詞に採用されたのは、結局第四節までです。ある研究者は『ほとんどベートーヴェンの詩』といっていますが、先人たちに学びながら、まったく自分の作品に作り上げるのも彼のやり方の1つだと思います。見事に消化されているんです。

藤田さんはシラーの詩にベートーヴェンが感動したのは、彼が思い続けた「自由と平等」が表現されているからとします。さらにそれが強く表現されている個所を選び取って、第九に結実させたのです。

シラーのその他の作品でベートーヴェンが読んだものは戯曲『ヴィルヘルム・テル』。第四幕第三場のテルのセリフを用いて、ベートーヴェンは亡くなった友人のために合唱曲を作りました(WoO104)。

悲劇『メッシーナの花嫁』からは次の文を日記帳に書き込んでいます。

われわれはただかく感じ、明らかにこれを知る、
生命は、最高の財宝にあらず。而して災厄の最大なるは罪過なり。

シェークスピア“世界の文豪”がもう一人登場です。「もっとも尊敬した詩人のひとり」。ベートーヴェンと友人たちの間でよく話題になっていたことが、会話帳から分かります。「ベートーヴェンのみならず彼の周囲にいた会話仲間達の間でもシェークスピア作品に対する関心が非常に高く、議論が交わされていたことを物語っている」。

遺品目録には『テンペスト』以外は見当たらないようですが、ここでは彼が確実に読んんでいた作品を引用します。ドイツ語訳です(後に出てきますが、フランス語はほぼ完ぺきにマスターしていて、そのほかラテン語、イタリア語も理解できたそうです)。

ロミオとジュリエット』第二幕、第二場。

ロミオのセリフ:塀なんか恋の軽い翼でひとっ跳び、どんな堅固な石の壁も恋の思いを閉め出すことはできない。それに恋には勇気がある。できることならなんでもやる(この文章の下に二重線が引かれ、さらにページを折り曲げています)この家の人たちがなんで僕の障害になるものか。

オセロー』第一幕、第三場。

ブラバンショーのセリフ:達者に暮らすが良い!もう用はない。なにとぞ議題を国事におもどしあるよう。実の子を持つよりは貰い子の方がましだったぞ。(???!)
ベートーヴェン自ら書き込んだ文のあとに疑問符をつけています。藤田さんは甥カールに関連があるとしています。

第五幕、第二場。オセローのセリフ:さあ、火を消せ、そうしておいて、あれの命の火を消してやるのだ。
“火を消せ”の部分に強く下線が引かれています。

その他『冬の夜語り』『十二夜』『マクベス』『空騒ぎ』『終わりよければすべてよし』『ベニスの商人』が引用されています。喜劇もけっこう読んでますね。それだけシェークスピアは話題になっていたんです。

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ティートゲベートーヴェンティートゲと1811年に8月にテ―プリッツで出会っています(ゲーテに会う1年前)。

9月には手紙も書いていて、何の挨拶もなく別れてしまったのを残念がっているし、なんでもっと早く知り合いにならなかったのか『自分自身に文句を言っています』。

ティートゲ作品に曲もつけています。《希望に寄せて》Op.32、Op.94の《希望に寄せて》、《美しいミンカよ、いかなくては》WoO158a-16、《別れ》WoO124、《人生の幸せ(《友情の幸せ》)Op88(これはティートゲ作品かは推定です)。

所持していた詩集は『哀歌及び詩集』1803~1807。1部と2部およびその他の2冊に分かれています。

『教訓詩』(『URANIA』)1808。この中にはとても有名になった名言があります。

喜びは分け合えば二倍になり、苦痛は分け合えば半減する

ベートーヴェンもきっと、この言葉に勇気づけられたことだと思います。

なおティートゲは、カントに影響を受けて作品を書いたそうです。「魂の不滅性をテーマ」としています。

〈マッティソン〉フリードリヒ・フォン、1761~1831。ドイツの抒情詩人、散文作家、フリーメーソン会員。ハレで神学、文献学、文学を学ぶ。シュトッツガルトの劇場支配人および図書館長を務める。

ベートーヴェンフリーメーソンじゃなかったですが、読んでいた書籍を見るとこの組織の事はどうしても外せません。

マッティソンの詩には「フリーメーソン的思想の色合いが窺われる」。なのでベートーヴェンは「若い頃からこうした(略)歌詞に魅了されており、その事実は多くの記録から窺い知ることができる」。

マッティソンへは手紙も書いているし(1800年8月)、曲もつけています。

《アデライーデ》Op.46、《奉献歌》WoO126、Op121b(この詩の中で「善なるものに美をお与え下さい」という最後の部分にだけ別に曲をつけています、WoO202、WoO203。ちなみにこの文は元来、紀元前の諺なのですが、マッティソンが取りあげました。)、《ラウラに》WoO112、《想い》WoO136。

結構あります。あるだけじゃなく、作られた年代がボン時代から晩年まで幅広い。特に《奉献歌》は繰り返し作られていて、藤田さんは「この詩ほど、生涯にわたって惹きつけられた作品はないといわれている。その理由は、ベートーヴェンの志向・精神に近い『自由の賛美』というフリーメーソン的な香りをもつ歌詞にひかれたためと考えられる」。

遺品の中から『抒情詩集』16巻、1809年が見つかっています。しかし作った曲の年代を見ればボン時代には、すでに出版されていた詩集を読んでいたわけで、ウィーンに来て改めて入手したと思われます。生涯ずっとお気に入りだった詩人のひとりです。

ヴェルナーフリーメーソンの一員。ワイマールでゲーテと親交をもつ。性格的に「放埓無拘束な分裂的な面」があったそうです。“運命悲劇”の草分けの劇作家。

蔵書は戯曲『谷間の息子たち』1803~1804。ベートーヴェンはこの作品から多く抜書きしてますし、会話帳や手紙にもヴェルナーの名前が出てきます。

トムソンベートーヴェンの遺品の中からドイツ語版『四季』1796年、が見つかっています。

依頼されて彼はさまざまなアイルランド民謡の編曲をしていますが、その中でトムソンの詩の編曲もしています。ちなみに民謡編曲は、ヨーロッパのものも手掛けていて、途中中断がありながら179曲に及んでいます。「民謡」に並々ならぬ関心を寄せていたことがわかります。「第九」の歌詞のメロディが”素朴な民謡調”と指摘されているので、関連を感じてしまします。

《25のアイルランド歌曲集》WoO152、《20のアイルランド歌曲集》WoO153、《12のアイルランド歌曲集》WoO154がトムソンの詩の編曲です。

ちなみに著名なベートーヴェン研究家セイヤ―によると、ベートーヴェンアイルランドウェールズの民謡もすべてスコットランド民謡と言っているそうです……。

〈ヴァイセンバッハ〉アロイス、1766~1821.帝国王国顧問官、外科教授、ザルツブルクの聖ヨハネ病院外科医長、詩人。

ベートーヴェンはこの人の作品『栄光の時』に作曲をしています。作られたのは1814年。そう、ウィーン会議の時です。ふたりはこの時出会っています。この状況なので詩の内容や作曲の経緯はおよそ想像できます。なのでベートーヴェン作品の中でもあまり評価は高くありません(演奏される機会もほとんどないし)。

しかし音楽研究家の平野昭氏はこの作品を再評価しています。

ヴァイセンバッハはウィーン会議中に上演された《フィデリオ》の観劇のために同地を訪れたそうですが、出会った時のことを回想して「ベートーヴェンの身体には、素晴らしい”魂の人”にまれな、剛健さと荒々しさがある。彼の相貌は、その人をあらわしている。(略)ベートーヴェンの音楽的天才は頭の形にあらわれている」と外科医的に表現されています。

実はこの回想は『ウィーン会議への旅行、真実と詩』1816という書籍の中にあるらしく、ベートーヴェンはこれを所持していました。

〈ミュルナー〉アマデウス・ゴットフリート・アドルフ、1774~1829。劇作家、編集者、法律家。ライプチッヒ大学で法律を学ぶ。劇作家ヴェルナーに影響を受ける。

悲劇『罪』1816を持っていて「ベートーヴェンを魅了した」といいます。この作品に曲をつけようとしましたが実現しませんでした。ここからの抜き書きとして次を引用します。

第四幕、七場。
見よ、人間とはこうしたものだ。だから人が倒れれば、他のものは泣くかもれない。だが、それがいいのかどうか、あえて裁くな。

同、八場。
生命は、音の振動に似ている。そして人間は弦楽器だ。ー

ゾイメベートーヴェンも持っていた『シラクサへの散歩』1802,1803(「旅の経験について(略)客観的、個性的、政治的、批判的、かつ日常生活に即した形で表現したため、それ以降、旅行記の著者に大きな影響を与えた」)が作品の中で有名ですが、『祈祷する女性』という詩に感動し、曲をつけることを考えていたそうですが、実現しませんでした。他に『聖書外典』1811を所蔵していました。

アーペル蔵書は悲劇『ポリドス』1805と悲劇『ギリシャ神話:カロルエ』1806です。『カロルエ』の方は作曲をしようとしたことが、音楽出版者への手紙で分かっています。

〈シュトレックフス〉アドルフ・フリードリッヒ・カール、1779~1844。文筆家、翻訳家、法律家。ライプチッヒ大学で法律を学ぶ。のち教育者としての仕事と並行してイタリア語を学び、通訳者として仕事をした。プロイセン行政庁の枢密上級顧問官。

蔵書は1804年に出版された詩華集があります。その中から歌を作るつもりだったのですが実現しませんでした(結構いろいろなものに興味は示していたんですね)。

〈ブーターヴェーク〉フリードリッヒ・(ルードヴィッヒ)、1766~1828。ドイツの哲学者、美学者。はじめカント主義者であったが、ヤコービの説に接近。ゲッティンゲン大学教授。

この人は詩も書いていて、1803年に出た『詩』を所持していました。

ヘルティ「自然をこよなく愛したベートーヴェンがヘルティの詩を好んだことは容易に理解できる」と藤田さんの言。遺品の中に『詩集』1815が発見されています。

ヘルティの詩には付曲をしています。《嘆き》WoO113、第一稿、第二稿。

マイスナードイツの大学教授、啓蒙思想の文筆家。そして、ドイツ語による犯罪・推理小説のジャンルを立ち上げた一人。ヴィッテンベルク大学とライプチッヒ大学で法律を学ぶ。法律事務所で働き始めた時、フリーメーソンの会員になりました。作品の多くは啓蒙思想が取り入れられています。

ベートーヴェンが持っていた作品は『スケッチ』14巻、1778~96の中の3巻~10巻です。これは上述の犯罪・推理物語です。マイスナーの作品は啓蒙思想を取り入れていると紹介しましたが、啓蒙?

藤田さんはこう教えてくれます「重要な事実は、マイスナーの作品は啓蒙精神へ貢献したことである。(略)犯罪に社会的、心理的要素を組み入れることによって司法の”人間性”をもたらしたことである」。

ちなみに『スケッチ』は50以上の物語が生まれ、大成功を収めました。啓蒙思想とはいえ、ベートーヴェンも”流行”の犯罪・推理物語を読んでいたんですね。興味深いです。

〈ガール〉オルグ・フォン、1783~1855。オーストリアの文筆家、民俗学者、詩人。ペストおよびウィーン大学で哲学と法律を学ぶ。ベートーヴェンは『詩集』1812を残しています。会話帳にもガールの名前が登場します。

中編に続く。