中村哲先生が突然亡くなられて、もう1年になろうとしています。
今でもアフガニスタンのどこかで、現地の人々のために働いているように思えます。
一周忌を前に、先生を偲び著作を読んでみたいと思いました。わが本棚を眺めたら2冊の本があり、まずは本書を読んでみました。
これは複数の新聞やweb記事、またペシャワール会報に寄せた文などを収録したもので、各記事は2~4ページほどの短いものなので、初めて読むには良いと思います。
そもそも中村先生はあまり多くを語らない人だと伺っていたのですが、その分、鋭い指摘をなさっています。
書籍データ
【辺境で診る 辺境から見る】中村哲 石風社 2003年5月20日初版
私は中村先生の講演を3度聞かせてもらったのですが、素人にも易しく分かりやすくお話しされていました。時には笑いも交えて。
なので本書もそんな感じで読もうと思っていたんですが……、パキスタンのペシャワールへハンセン病対策のために旅だった頃から、やがてアフガンの東部山岳地帯の無医村へ―。
それはとても“笑い”を交えられるものではありません。特にアフガンの不文律のの”掟”の、日本の常識など全く通じない世界の厳しさも正直に書かれています。その厳しさは、日本の感覚だと残酷すぎて、ここでは紹介できないものもあります。
でも中村先生にとって、それが自然とともに生きる、失うもののない人間の”本当の姿”に映ったのでしょう。
当たり前ですが、先生のパキスタンおよびアフガニスタンでの活動の記載がほとんどなのですが、「辺境から見た」日本の姿も喝破されています。やはり離れてみるとよく見えるのでしょう。それはいま日本に住む私には、とても恥ずかしく思う鋭い指摘にあふれています。
本当に”手を差しのべる”とは
先生の援助の仕方が、本書の初めのほうにすでに書かれています。
「伝統的な相互扶助のやり方に則って」
「現地の人々による現地のための人づくりを主眼にすべきであるという判断と方針を貫いてきた」
つまり相手の文化や習慣を無視せず、こちらの思惑を押しつけず、お互いに助け合えば「少ない予算で多くの病気をまるごと激減させることができる」。
先生が常におっしゃっていたのは、この事だと感じています。それに関するのですが、欧米中心で大挙してやってくる援助団体の”間違い”を指摘されています。
「(難民は)外国人の情熱のはけ口でもなければ、慈善の対象でもない。日本人と同様、独自の文化と生活意識を持った生身の人間たちである。わがチームは外国人の活躍場所を提供するために存在している訳ではない」
1979年の旧ソ連の侵攻、そして10年後に撤退し荒廃した国土の復興を援助しようと、多くのNGOがやって来ました。が、彼らは"本当に必要な援助”とは何かを理解していなかったのです。
地元民を無視した“援助”のやり方に、やがて事務所や施設が襲撃される事件が起きます。そして、ニューヨーク同時多発テロの"正義のための報復”でアフガニスタンの空爆が始まると、かれらは一斉に引き上げていきました。
この欧米中心の援助団体が、2001年の空爆の時どうしたかとか、地元住民が彼らをどう見ていたかが分かれば、中村先生のおっしゃったことがよく理解できるのです。
常に厳しい情勢の中でぶれずに援助し続けるには「絶望の支配する中で、生まれつつある希望と良心の芽を育み、将来に備えること以外にない」。生まれつつはもちろん、地元住民の中にです。
援助の実態。それは”慈悲深きもの”だけではない
講演では「易しく」話されると書きました。では本当の支援の実態はどうかというと、これは衝撃的です。
「(ペシャワール会の)会員への手紙」が収録されています。そこにはこう記されています。日本から帰ってきて現地の職員にこう告げました「我々はゼロから始めた。いったん君たちを全て解雇し、再びゼロから始めるにやぶさかではない。文句があるならば当院を去るように」。どういうことなのでしょうか。
「百六十名の現地スタッフの管理は、日本で想像されるほどヤワななものではありません」。人間というものは時間が経つにつれて“慣れ”が出てくるもので、「院内で肝を冷やすような不祥事が続き(略)軍隊以上の規律を徹底し、違反者を容赦なく処断するのです」。
生で講演会のお話を伺った時の、飄々とした雰囲気とのあまりの違い……。
必要とあらば徹底的に実行に移す。”厳しい”といえばそうなのですが、命のやりとりをしている、そして自分の行動が目の前の人にどう影響するかを考えれば、おのずとそうならざるを得ないでしょう。
「一つの例外を許せば、無秩序で病院が破綻する」。先生はそれを一番恐れたのだと感じます。しかしそのために敵を多く作ることも当然分かっています。普通の人はそれが嫌で、こういうことに踏み切れません。先生も「こんな仕事が小生には最も不向きなのですが」と断ったうえで「誰もやらなければ自分でやる以外にないのです」とおっしゃっています。
憎まれ役にも敢えてなる勇気。無ければ、自分でやるー。医師である中村先生が、用水路を造ることになったのも、そういう精神・行動力からなのです。
実は厳しくするのはもう一つ理由があり、その当時のペシャワールの公営病院が財政難で、貧民の診察が困難になってきたことが背景にあります。
「PMS病院の存在は、少なくとも現地の医療面で、人の心が守るべき最後の砦だ」。
ご自分の仕事にとても誇りを持っていることが感じられます。
「緑の大地計画」
この計画はペシャワール会・PMSの大きな中心をなすものですが、きっかけは2000年におきた未曽有の大干ばつです。
先生はこれを単なるアフガンだけの問題とせず「全世界規模で起きる戦慄すべき出来事の前哨戦に過ぎない」と見ています。干ばつはユーラシア大陸各地で起き、なかでもアフガニスタンが最悪だったのです。
この被害の中で先生は
「私たちの常識、世界観を根底から問うものであった。単に国際協力に止まらず、戦争と平和、文化と文明、自然との共存、あらゆる人の営みの危機的様相を眺め、現実の格闘を通して多くの示唆を得た。やや誇張すれば、人類的な課題を目前に突き付けられたと言える」
この危機感が「緑の大地計画」を生み、実現するように駆り立てたと言えます。
“戦乱・緊張状態”が日常
同時多発テロの報復攻撃が近い、という中での日本大使館の「法人退去勧告」を受け先生も一時帰国されました。
そのとき日本で沸き返る「米国対タリバン」の図式に、強い違和感を覚えられたようです。
「なんだか作為的な気がした。(アフガンで)淡々と日常の生を刻む人々の姿が忘れられなかった」。そして「家族をアフガン内に抱える者は、誰一人ペシャワールに逃れようとはしなかった。その粛然たる落ち着きと笑顔に、内心何か恥じ入るものを感ぜずにはおれなかった」。
先生は”平和”な日本の日常より、戦乱と緊張が常のアフガンの方が“普通の日常”と化していたのですが、それはきっと先生の理想とする「人間の姿」がそこにあったからと思います。危機的な状況下での「粛然たる落ち着きと笑顔」がそれを表しています。
次の言葉は先生の万感の想いが伝わってきます。
「アフガニスタン!茶褐色の動かぬ大地、労苦を共にして水を得て喜び合った村人、井戸掘りを手伝うタリバン兵士たちの人懐っこい顔、憂いをたたえて逝った仏像―(略)漠々たる水なし地獄の修羅場にもかかわらず、アフガニスタンが私に動かぬ「人間」を見せてくれた」
”世界で最も悲惨な国”は、本当に不幸なのか?
アフガンが本当に大変だから支援を続けていますが、先生は人々を「不幸」だとは思っていません。
「彼らが最も切実に望むのは、誰にも依存せぬ村々の回復です。鍬も握っていない外国人が農業支援を行うことはできません。カネをばら撒いても、農作物は増えません。(略)教育の破綻しかけた国が教育支援をするなど、冗談にもほどがあります。現地のことわざに、「アフガニスタンではカネがなくとも食っていける」と言い、「アフガン人に半人前はいない」といいます。(略)精神はカネでは買えません。この独立不羈の気風がアフガニスタンの屋台骨です」
むしろ不幸なのは「強い者には媚び、衆を頼んで弱い者に威丈高になる」ことに違和感も恥も感じない人間なのです。
ちなみに「かつて日本では、こういう者は嫌われました。でもこれが、今風の『国際社会』や『先進諸国』のようです」と言われています……。
現実と残酷が交錯する医療現場
「生死の選択」と題した文は、医師ならばアフガンでなくても経験する可能性のあるものです(日本でも新型コロナの医療現場で、聞いたことがあります)。
まだ傷の軽い方を生かす治療を施し、もう一人の重傷者を途中で死ぬと分かっていて、何十キロ先の麓の村まで送り出す―。
先生は淡々とその時の様子を書かれているように思ってしましますが、却ってその壮絶さが伝わるのです。
「生死が悠久の大自然に渾然と溶け合」う土地に生きる人々の精神性は「分を越えた生への執着や不安」はないかもしれません。しかし、地雷で足を吹き飛ばされることは、大自然の仕業ではないはずですが。
ペシャワール会の理念
先生はそれについて、なかなか言いにくいようなのか「ケムに巻く」とおっしゃっていますが、三つの「無」を挙げています。その中の一つに「無思想」があります。
「特別な考えや立場、思想信条、理論に囚われないこと」。
「自分だけ盛り上がる慈悲心や、万事を自分のものさしで裁断する理論は、我々の苦手とするところである」
良かれと思って良いことをするのはいいんですが、それが果たして本当にその人のためになっているのか?深く洞察することの大切さ……。良いことの押し売りにならないようにしたいものです。
アフガン人は”JAPAN”を尊敬していた
先生によると、現地では山奥にまで日本のことが知られています。これはアフガンの人びとに限らず、中央アジアの多くの国でそうみたいです。日露や太平洋戦争、そしてヒロシマ・ナガサキ……。
この幾多の国難を乗り越えて今、すばらしく繁栄している―と現地の人びとには映っていたようです。
そもそも日本人がアフガン人から信頼を寄せられていたので、先生率いるPMSは活動がしやすかったといいます(先生は”ご先祖様”に感謝されています)。
しかし、その感情も危うくなったと危惧されています。それはなぜか?
具体的にはあの湾岸戦争への“参戦”です。
「日本人の大部分は、自分が積極的に『参戦』しているなどとは思っていないだろう」と鋭い指摘をされています。私もお金は出してるけど、人は行っていないのだし、と軽く考えていました。しかし現地の人々はそう見ていません。
「日本が多国籍軍に『断固たる支持』を表明し、強力な財政支援を決定した事は、現地イスラム住民の間に当惑と敵意を徐々に拡大してゆく」
これは大げさだろうと思ってみても、その現地で住民とともに苦楽を共にしてきた中村先生の、身をもっての感慨なのです。イスラム信者というものは、国境を越えた感覚を持ち合わせているようで、湾岸戦争は"欧米対イスラム”の図式を私たちより強く感じているのです。その欧米に日本も支持しているのです。
「日本人の主流が欧米世界を国際社会とし、発展途上国の立場に立てぬ無神経さを露呈したからである。ペシャワールというイスラム世界の片隅から見れば、日本で自明とされる『国際秩序』なるものは、『欧米秩序』であり、混乱と干渉を正当化するフィクションである」
まさに「辺境から見た」日本の恥ずべき姿がそこにありました。そして中村先生はひとり、現地の真っただ中でそれを痛感せざるを得なかったのです!
せっかくご先祖様が築いてくれた日本への信頼も危うくなって、活動がしにくくなったそうです。しかしその中で先生は、友人として扱われている、そのことに「奇妙な立場」を覚えたといいます。
「それは我々のアフガン人チームが献身的な活動で地域のパシュトゥ住民の信頼を勝ち得てきた成果であり、この状況下では奇跡的とも言えた」
決して自分の、とはおっしゃらない。アフガン人たちだって先生を信頼しているからこそ、行動すると思います。アフガン人職員が空爆下の、カブールへの食糧輸送を危険を顧みず実行したのも、先生が必死で募金を呼び掛けたことを知っているからこそだと思います。
あるとき「日本はイスラムをどう見ているか」と難しい質問をされたそうです。私たちならどう答えられるでしょうか?先生は、
「我々はアッラーの欲する平和を愛する。内戦で諸君は何を得たか。平和こそが日本の国是だ」とおっしゃいました。
しかし、今は「後ろめたい」気持ちを感じるといいます。「屈折した」そして恥の気持ちを抱いたのです。その矛盾は本当は私たち日本人全員が抱かなければいけないのです。
その矛盾に目を向ける時に見えてくるものは「近代化と伝統社会の破壊、都市化とカネ社会による人心の荒廃、自然破壊、農村の疲弊、日本を含むアジア諸国のあらゆる悩み」です。
先生がアフガンに支援をし続けるこだわりがあるとすれば、この国は疲弊はしているけど、まだ「伝統社会」が残っていて、条件がきちんと揃えば「農村」は復活できるし、「都市化とカネ社会」は一部の都市に限られていることだと感じます。
日本のように、ほぼ捨て去ったものがアフガニスタンにはまだ生き残っているのです。
なぜ日本はこうなってしまったのか?その一端が見えてくる先生の言葉がこれだと思います。「野放図な自由の幻覚が何を日本にもたらしてきたか」。
私個人は次の言葉が身にしみました。「人間はどうしようもなく愚劣であって、自分の中で作り上げた小世界に基づいてしか生きて生きてゆけない」……。これは今本当によく感じることです。その人だけの「小世界」なので、他の人には理解できない。当たり前なのですが、そこが理解できない人が本当に増えています。
街中でキレている人もよく見かけるようになりました。よく分からないことでいんねんをつけてくる人も増えました。「この自己破壊的な愚かさが、今や最終局面に近づいていること―」を先生は憂いています。
でも、中村先生は決して日本の現状を見放しているわけではなく、むしろその文明を愛するために、言い続けてきたとすごく感じるのです。
本書を読んで、アフガニスタンの現状が少しでも理解できたとともに、日本の暗部に渦巻くものに光が当てられて、白日に曝されたと感じました。
「改めて我々のアジア理解=人間理解の薄っぺらさ、平和の虚構を骨身に思い知らされた」
中村さんが現地の友人から言われて「胸をえぐ」られたという言葉を最後に収録します。
『私は日本を尊敬しています。日本人が戦争による惨禍を知っているからです。ヒロシマ・ナガサキが日本の都市だからです』