kiuelの節操ない読書歴

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【広島原爆】誰もこだわらなかった、投下時間から見えてきた衝撃

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広島原爆についての本は、どうしても“被害者”の立場から受けた被害の大きさについての内容に偏って読んでいました。でも最近ちょっと自分の姿勢に疑問を持つようになりました。これって、真に原爆について理解できているんだろうか?

この疑問に、紹介する本の著者は見事に答えてくれていました。
原爆投下の全体像は、被災の事実とともに、加害者の意思についての事実の集積でしか明らかにならないはずである

原爆投下とは何だったのかを問うことの”基本”と言えるのは、「複眼」で見ることだと教えてくれます。しかし現状は、日本側もアメリカ側も複眼で見なければならないその相手を「軽視する態度では共通して」います。

著者は例として、日本側は広島の平和記念資料館の展示の仕方への疑問(同館は近年リニューアルしており、著者が批判している時と内容は変化しています)を提示し「攻撃者側の意図・行為を追求しようとせず、もっぱら被災の悲惨を訴え、核兵器の受難者であることだけを強調する」。

他方、アメリカ側は"スミソニアン論争”で見せたように、「攻撃者側は爆撃機の『歴史的行為』にだけ脚光を当て、被害状況のほんの一端の紹介をも拒」みました。

ここで焦点から外れますが、スミソニアン論争と対照的な出来事として、原爆切手発行問題のリンクを貼っておきます。これは正に、日本とアメリカの、原爆投下をめぐっての考え方の対立を示すものです。

ちょっと気になったのが、スミソニアンの問題は当時けっこうニュースになっていて何となくでも覚えているんですが、この切手の方はあまり記憶にないんです。私だけですかね……。

書籍データ
【広島原爆 8時15分投下の意味諏訪澄(すわきよし) 原書房 2003年8月6日初版

本書の特徴は投下時間である8時15分がどうして決定されたのか?に焦点を当て、原爆投下の背景に迫ろうとしているところですが、私たち一般の日本人でこれに疑問を持った人がどれほどいるでしょうか。私は本書を読むまで、感じたことはありません。ただ、8時15分がそうなんだ、と思う程度でした。恥ずかしいですが。

そして時間以外にも原爆投下作戦である「マンハッタン計画」のもう2つの要素、爆発の高度と投下目標地点にも触れられています。

私たちがこれらに目を向けてこなかったのには理由があり、著者はそれも指摘しています「現在の私たちの前、そして、ノンフィクションを書いた作家たちの前にも、歴史的事実としての広島爆撃がある。その投下時刻・爆心地・爆発高度は、確定した事実として、私たちの前に残されている。それらはあたかも、そうであったことが当然で、それ以外のものがありえなかったかのような印象を与えている」。

著者はこの時間は「結果」ではなく「達成されるべき目標」つまり厳密に計画されたものだったとします。「あくまで最大効果を達成するために選び取られたものなのである」。本書はどのようにして計画されたのか「意味するところを追跡」します。

これについて知ろうとすることは、原爆の製造と使用をしたアメリカ側の背景を理解しようとしないと思いもつかないことなのです。

そして諏訪氏が辿り着いた1つの結論は、人間の“根本思想”ともいえる、なんとも衝撃的なものでした。


ここで少し触れておきたいのは、追究する問題に対し資料が少なすぎること。アメリカ側のことですが、それを諏訪氏がたびたび嘆いています。この"資料の少なさ”がある問題の本質を表しているようです。

それでも「計画」の中で、爆発高度と投下目標地点、そして昼間か夜間かの実行については、ある程度予測はつくといいます。

当時の空襲は、例えば東京大空襲を考えてみても、「都市壊滅を目的にしていた以上、広島攻撃は本来なら夜間爆撃で行われるべきだった」。しかし著者は「この攻撃は、軍事上の観点からよりも、政治的に最重要だった。(略)当時では、まだ信頼度が充分でなかったレーダー照準に頼ることなく、目視による精密爆撃が厳命されていた」からといいます(下線は筆者の傍点部分)。

「政治的」というのは、【広島の原爆】でも触れましたが、世界への誇示、特に旧ソ連に対してでしょう。少なくとも私はそう思いました。「どうしても大戦中に使用したかった」ことと関連がありそう………。米大統領へ1つの攻撃に対して、いちいち裁可を請うのも異例として、「広島攻撃の政治的重要性は明らか」。

午前中だったのは、「午後には雲量が増え(8月という季節に注意)、目視爆撃が困難になるから」。テニアン島の基地の司令官たちが、日本の天候について神経質になっていた状況が記録に残されています。

爆発高度580mの設定は、原爆による3つの攻撃(放射線、熱線、爆風)が「最大効果を挙げる」ためと、「エノラ・ゲイ」の搭乗員たちが安全に退避できる時間の確保のため。

同機は投下から急旋回し、原爆炸裂時は約13.8km地点にいましたが、ゴーグルをつけた目にも「いっせいにマグネシウムの閃光照明が焚かれたようだった。我々は一時的に盲目になった」との記録が残されています。実際には乗員たちも「危険と安全の境界線上」にありました。

最大効果の高度設定は、科学者たちの緻密な計算のうえで導き出されたものでしょう。「どうやってその数値が導き出されるのか、私には理解できない。また、それらを判りやすく(?!)解説した資料などというのも知らない」として、諏訪氏は専門外でそれ以上の調査不足に断りをいれています。

ただ「間違いないのは、各部門の破壊効果専門の研究者たちが予測計算を行い、それをアラモゴードの実験で修正し、この数値が導き出されたことである」。

目標地点がT字形の相生橋だったのは「都市の中心部にあり、到達・識別しやすい理由からT字形の橋が選ばれていた」。しかし疑問が残るのは、「識別しやすい」のなら当時司令部が置かれていた、旧広島城の方が面積も大きく見えやすいと感じます。詳細は取材時は明らかにされていないそうです。


このように、原爆使用の決定には、「不透明さ」が残っています。はっきりしていることは「日本の軍事力に止めの一撃を加えるものとして使われたのではなかった」ことです。

太平洋戦線のアメリカ軍首脳は、彼らが手にしていた兵器を使用するだけで、日本の徹底的破壊、そして降伏は時間の問題と判断していた」

軍関係者は原爆の必要性を感じてはいなかったのです。これと関係があるのか、「奇妙なことに、太平洋で日本軍と対峙していたし最高司令官たちに、この新兵器の使用は諮問されてはいなかった」。

諏訪氏はやはり原爆使用は「文民政治家によって下された政治的判断」だったとします。

その判断とは①画期的兵器の示威②旧ソビエト参戦を阻止するための日本の早急な降伏への誘導③戦後の国際政治の主導権の掌握……諏訪氏はこれらを「政治的決定の常」としています。

政治的判断……。大統領のトルーマンは、いつ、どのように原爆投下の許可を与えたのでしょうか?

1945年7月25日に出された〈大統領命令書〉にはすでに、「目視爆撃」と広島など4都市の投下目標が明記されています。実行日も「8月3日ごろ以降」とされています。

だだし、この〈命令書〉は大統領本人ではなく、「陸軍参謀総長代行」の署名がなされています。


原子爆弾は科学者の間ですら「机上の空論」と考える向きがありました。それがあのアラモゴードの実験成功を受けたとたん現実となり、そこから早急に“いつ、どのように使用するか”の決定が進みました。

しかし「大統領側近の、統合幕僚会議議長・レーヒ提督は、原爆使用に消極的だった。(略)陸軍航空軍総司令官・アーノルドも、レーヒほど明確ではなかったが、原爆使用に乗気ではなかったと伝えられる」といいます。これは太平洋戦線の軍幹部の感慨と共通するものだったと思います。

「最高段階での意思決定が、どのように行われたか、いまなお不透明な部分があるということ。そこには、なにか後味の悪い空気が漂っている。それは現場の軍人たちの意見が未消化のまま押し切られたからかもしれない」。押し切ったのは大統領自身なのか、ほかの誰かなのか、その辺りも曖昧なのです。

後に大統領の娘が伝記を執筆していますが、側近を集めて原爆問題を討議した会議のことに触れているそうです。その内容をある研究者が彼女に問い合わせましたが、「『ほかの歴史家に対してと同様に』彼女は彼に回答を拒否」しました。「原爆使用について、どういう議論・決定が行われたか、あるいは行われるべき議論が行われなかったのか―(略)当事者たちは口を開くのを拒んでいる」。

これは“政治的圧力”を感じてなりません。アメリカもこういう資料を公開しないことが多いです。

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戦争末期、日本の軍部は"精神論”ばかりに偏って虚しく叫んでいた頃、テニアン島で原爆投下までの日数は、あの実験成功から日ごと「充実した時間を送って」います。対照的です。もちろん不測の事態や人間関係の問題もありました。しかし、「最終的には、水も漏らさぬ準備態勢を敷いていった。陸・海軍と科学者の総力を挙げて、数年間の努力を完成させようとしている」。そして重要資料となる1つが出されます。〈野戦命令十三号〉です。

8月2日に出された作戦命令を起案したのは、原爆投下を任務とした「509部隊」を指揮し、「エノラ・ゲイ」の機長も務めたティベッツ中佐。「現在までの史実では、広島爆撃は、ほぼこの指示通りに行われた」ので、資料的価値は高いと思います。重要なところを抜粋をしてみます。
(1)8月6日、日本の目標を攻撃する。
第1目標は広島工業地域。第2/小倉造兵廠と市街。第3/長崎市街地域。
(2)隊編成ー爆弾投下機。随行機2機(観測機器投下と撮影)。予備機(硫黄島に待機)。気象観測機3機(3目標に各1機が1時間前に先行)。
(4)高度―(略)爆撃時には9000~1万メートル
(5)攻撃時刻―6日午前8時15分。 
(6)攻撃時の速度―時速322キロメートル。
(8)目視爆撃の厳守。――

8月6日は、広島だけじゃなく、小倉、長崎も攻撃対象に入っていたのです。広島が駄目だった時の候補地なのでしょうか。

エノラ・ゲイ」の乗組員たちは、自分たちが落とす爆弾が「原爆」だということを、ティベッツと爆撃指揮官パーソンズ以外知らされていませんでした。離陸後初めて「原子」という言葉を聞かされたといいます。当事者も一部の人間しか知らされていないという情報管理の厳しさ(ちなみに〈十三号〉の文書にはTOP SECRETの印が押され、それが解除になったことを示す横線が引かれています)。

〈十三号〉には何か所か「省略」という文字が出てきます。何が省略されているのか?著者は米公文書館の担当者に問い合わせていますが、「第二次世界大戦下の作戦命令で普通に見られるもので、〈十三号〉だけ特別ではない」とし、たいした意味はないと答えたといいます。

しかし著者は不満を覚えました。そこには諏訪氏の“日本人の顔”ともいうべき姿勢が見られました。これはちょっと驚きでした。なぜかと言えば、”はじめに”で書かれていた本書を執筆する姿勢と違って見えたのです。
〈野戦命令十三号〉とは、広島市に対する死刑執行の命令書である。死刑判決を受けた者が判決文の全文に目を通したい願った場合、それは容れられるだろう。私は死刑執行を受けた側の人間として、「省略」なしの命令書完全版を見たいと望む

〈野戦命令十三号〉は作戦の最終結論なのですが、そこまでに至る中間の資料は見つかっていません。したがってなぜ「8時15分」に決定されたのかは不明のままです。

作戦実行に直接結びつく資料の少なさの1つの理由として考えられるのが、先ほど出てきた「509部隊」の存在の複雑さです。

この部隊は既存の部隊に所属していない「独立した特殊部隊」。作戦は「最高機密」なので他の部隊と「摩擦が起こっても、十分に討議し意思疎通を図る」事ができませんでした。そのあたり、軍人同士の”エゴ”が見え隠れしています。

実は作戦実行直前になって、予定日が二転三転したというのです。

「作戦細目の決定過程を今日なお不透明にさせている原因の1つとして、この509部隊の指揮系統の二重性も作用している」。日程は揺れ動いていましたが、投下時刻だけは変更が見られません。

「『8時15分』の時間設定については、だれからの異議も出ない明確な理由付けがなされていたと思われる」


諏訪氏は原爆投下に関わった重要人物のインタビューに成功しています。先ほども出てきた「エノラ・ゲイ」の機長で509部隊の創設者でもあったティベッツ氏。2000年9月のことです。当時、原爆投下作戦の決定事項に参画できうる階級だった唯一の生き残りでした。

彼は作戦の細目は「すべて私が決めた」と言い切りましたが、「なぜ8時15分だったのか」の諏訪氏の問いには「天候」を理由に挙げました。

7時15分でも9時15分でもいいのでは?の問いには沈黙。諏訪氏はティベッツ氏の心理を察し、話題を変えて自身の暗号名を聞くと「知らない」―。その暗号名は諏訪氏によると、ティベッツ自身が書いた書籍の中に出てくるものだったそうです。

「極めて健康的」に見えた85歳のティベッツでしたが、「年月による風化が、この強靭な戦士をも蝕んでいるのか」―。最重要証人の「証言能力に疑いを抱かざるを得ない」と謎の探求はふりだしに戻ってしまいました。



諏訪氏は決定的資料、証言者をいったん諦め、状況証拠を詰めて仮説を組み立てることで「8時15分」の謎に迫ります。

8月1日にティベッツが起案した〈野戦命令十三号〉には(だから彼は「すべて私が決めた」と思ったのでしょうか)すでに「8時15分」が明記されていたことは触れましたが、その内容は前日の7月31日に開かれた「テニアン統合参謀本部」の会議で決められたと著者は推測します。

「議事録は、もちろん、メモも公開されてはいない(略)この重要会議はヴェールに覆われたままである」それを踏まえて、この中で広島などへの運搬・接近についてはティベッツが説明と著者は考えます。

では「爆発中心点・爆発高度・時刻等の作戦計画」(異論や疑問がほとんど出されなかったという、これらの事項)は誰が、提案・説明したのでしょうか―。


「これへの答えを導き出すには、(略)新しい爆弾・その威力について、誰が説得力のある説明をなしえたか。(略)原爆の専門家、理論上のそれだけでなく、核実験にも立ち会った実戦の専門家」であるウィリアム・パーソンズ海軍大佐です。

彼は「エノラ・ゲイ」の機長だったティベッツよりあまり注目されていませんが、“日陰の存在”だった訳ではなく、「広島攻撃ティームの爆撃指揮官で、その比重はティベッツより大きい」。さらに(これが注目されなかった理由と思われますが)「戦後も核兵器開発に携わっていた」ので、重要機密に関わる人物への世間の注目を避ける必要性がありました。

マンハッタン計画」は1942年8月から始動しますが、科学者と軍部を結び付ける”統率者”がいませんでした。「最新科学が判り軍事と兵器に明るい人物」。

パーソンズ海軍兵学校を卒業後、海軍新兵器実験場などに勤務。この経歴のためか、”統率者”として推薦を受けました。「それは海上での前線勤務や、それに伴う進級をも諦めることを意味していたが、パーソンズは敬礼し『アイ・アイ・サー』と答えた」。

彼は43年春からロスアラモス研究所に入り、所長のオッペンハイマーと協力する形で副所長に就任しました。科学の「理論」など、ほぼ理解できず、なかには批判的な目で見るものもいる軍人たちにその理解を求めるのがひと苦労だったといいます。

諏訪氏は研究所の運営は「『神童』”オッピー”が考えついたことを、秀才パーソンズが理解力と調整力で実現させていった。二十世紀最大の科学事業は、二人の緊密な協同作業でなし遂げられた」。


アメリカは本来、原爆開発を進めていたナチス・ドイツへの使用を念頭においていましたが、それが降伏し、日本への使用に切り替えた時、一部の科学者の間から「原爆の無限定使用を疑問とする」動きが出たのです。

「日本の軍部をも立ち会わせた公開実験・事前通告をともなう示威爆撃等々」を提案しましたが、却下されました。そして「マンハッタン計画」から彼らは「隔離」されました。

科学者たちは巨大な破壊力がもたらす“その後”を想像して、このような行動に出たのでしょうか。

それにしても「日本の軍部を立ち会わす」とは、アメリカ本土へ呼び寄せるということでしょうか?……それを「計画」の、特に政治的部門の幹部が了承するとは思えません。「現実の動きは、まっすぐに一つの方向に進んでいった」。

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「8時15分」の諏訪氏の仮説の具体的なところはこういうことです。「計画」の完全な成功のために、広島市への偵察飛行が頻繁に行われました。本当の空襲の場合は多くが夜間に行われたのは先に書きましたが、昼間でも数十から百機以上の戦闘機などの編隊で飛来します。

二、三機で接近する偵察飛行に対しても警報は出されますが、多くは無害なので「昭和20年の春以降、「警報」はほぼ毎日出されていた。つまり日常化しており、サイレンを聞いて緊張し、防空壕に待避するなどという行動は取らなくなっていた」。

戦後になってある被災者への取材で「二、三日前から、ほぼあの時刻(8時15分)に少数のB-29が飛んでいた」と証言しています。これは“なぜ原爆を使用したのか”の問いへの答えを補強するものだと思います。この偵察は何を探っていたのでしょう?

それは広島市民の「行動様式」を把握するためです。8時15分を起点に見ると、例えば市役所は8時、職員が中庭で朝礼。学校でも教職員や児童、生徒が校庭で朝礼後、建物疎開に従事。あるいは、会社へ行くための通勤などで街頭に出ている人が多かったのです。

「上空からの望遠レンズは住民・生徒たちの姿を的確に捉え、テニアン基地司令部は市民の行動を分刻みの正確さで把握していたと考えられる」。―これが7時15分でも9時15分でもなかった理由です。

”多くの市民が外へ出ている”という条件がどうして必要だったのか。その記録が米大統領特命の諮問機関「暫定委員会」の”初会合”の議事録中に記されています。

5月31日に開催されましたが、そこにはあの科学者たちが提案した”事前通告”はあっさり退けられ、

〈日本側に事前通告はしない……可能な限り多数の住民に、深刻な心理的効果を与える

市民が“いつものように“日常の朝を迎えていた時に―、「心理的効果」は、あの偵察飛行とともにことさら最大級になったでしょう。

あの〈野戦命令十三号〉の時刻は、偵察が十分に行われた後に出されています。


著者は資料の少なさに歯がゆさを覚えていますが、それは記録を公にできない理由が「アメリカ軍の威信を高めはしない。国益を利することはない」ものだからです。

広島市編纂の記録には『約』の字と『不明』の記述が多い。一般論として、これは記録としては物足らない。しかし不完全な記録しか編纂できなかった事実が、爆撃の性格を明確に物語っている。確実な証言者の生存を許さないそれ―ー皆殺しである」

ここまでくると“歯がゆさ”は私たち読者も同じです。

諏訪氏の仮説を裏付けるのは、さきの議事録に「心理的効果を与える」相手が日本軍ではなく、広島の「多数の住民」と記されていることです。

著者はやるせなさを滲ませるようにこう言います。
私の仮説を妄説として斥けるためには、7月から8月2日までのテニアン・グアムでの会議記録、ワシントンとの間の連絡電文、偵察部隊の報告を公開し、投下時刻決定の「別の理由」を提出しなければなるまい。アメリカ政府に、それができるだろうか

そもそも、「なぜ広島だったのか?」。諏訪氏が調査した資料の中に、詳細な理由は見いだせなかったそうです。



戦後、国際社会で核兵器使用に関する問題がとりださされる時、アメリカはたびたびその”正当性”を主張してきました。”使用しなければ、日本への上陸作戦で多数のアメリカ兵が犠牲になった”というようなものです。

諏訪氏はこの問題について「トルーマン大統領は、原爆使用について陸海軍の首脳と公式に協議していない」ことが問題だとしています。

「作戦立案が、専門家の軍人側から出されていなかった」ので「『五十万~百万のアメリカ兵の損失』という推定値は、信頼できる根拠を持っていない」。

アメリカ国内でも論議の対象とされてきましたが、そもそも”正当性”がはっきりあったなら、なぜ論議の的になるのでしょう。

本書のために著者が当たった原爆使用に関する膨大な資料の中に、この”正当性”を裏付ける文書は存在しているんでしょうか?……


投下から3日後に、全米キリスト教会連合の事務総長が原爆使用に抗議の意志を表明しました。大統領はこれに対し返事を送ったのですが、ここに一部を引用します。

「原爆使用について、誰よりも悩んだのは他ならぬ私です。しかし、それ以上に私を苦しめたのは、真珠湾攻撃と日本側が我々の捕虜を殺害した行為でした。(略)を相手にしている時には、相手を獣として扱わなければならない。極めて遺憾なことではありますがこれが真実なのです。」

獣は英文ではbeast。もはや同じ人間としてみてはいません。諏訪氏はこれを、

「単純にして明快な復讐の情念である。そして、あの爆撃指揮官パーソンズ大佐も爆撃の後、同じ理由を挙げている」。

少し長いですが、B-29が「リトル・ボーイ」を投下した時の「エノラ・ゲイ」機内と、その後のパーソンズの様子か書かれていて興味深いので引用します。
爆弾が炸裂し、キノコ雲が高空にまで達した時、「エノラ・ゲイ」の機内は興奮で熱狂する。自分たちが歴史的事業をなし遂げたことを知り、感激に酔う。
しかし―一時の興奮が終わった時、次に機内を覆ったのは長く重苦しい沈黙だった。ある者は言葉に出した。俺たちは、いったい何を仕出かしたのだろう、と。乗員は、それぞれに、自問していたであろう。だが基地に帰った時、お祭り騒ぎが待っていた。問い掛けは、そのまま流されていった。
その夜、自室でパーソンズは、あの「機内の沈黙」を、もう一度噛みしめる。一つの都市を蒸発させてしまった行為は正当だったのか問い掛ける。答えを探し故国の父に手紙を書く。「真珠湾の『だまし討ち』とパターン半島での『死の行進』を考えれば、許されると思う」

この心理は「1945年夏、前線の軍人(略)そしてワシントンの政治家にまで共通するものだった」。

「機内の沈黙」とは何だったのでしょうか。パーソンズの自室での問いかけは、ある種の“後ろめたさ”を感じます。しかし、何かの力の流れというかそういうものに、"人間的な思考”をも押し流されてしまい、その後のアメリカの”正当性”の主張へと続いていきます(パーソンズ核兵器の開発に携わり続けたのは先に書いた通りです)。

戦争の動機の基本的なものの1つと思う復讐は、当事者と"その時”には有効なのかもしれませんが、「普遍性」は持っていません。部外者(いえアメリカ国民の間ですら、疑問視する人々がいたのです)には理解しがたいだろうし、時が経つと変容するものです。何より当事者たちの、成し遂げた後のあの「沈黙」。そこで万人が“理解”できるような、まっとうな理由付けが必要になってくるのです。

しかし著者ははっきりと「虚構」と言い切ります。虚構は少なくとも1990年代のアメリカ世論でいまだ主流で、「この状況は、当分、変わらないと思う」とため息まじりに書かれています。


著者は最初にこう記しています「本書はアメリカへの『断罪』を意味しない」。なぜなら私たちもまた「核兵器を持とうと試みた」からです。

核兵器の使用を選択したことへの非難は「同じ状況に我々が立たされた場合を仮定し、なおかつ我々はそれを選び取らなかったであろうと明確に証明しなければなるまい」。
決定的に有利な兵器を手にしながら、なお、それが非人道的だからといった理由で、その使用を抑制する―そうした態度を貫くためには、ある強い道徳律が人々の間に存在していなければなるまい

諏訪氏はそれは難しいと考えるし、私もそう思います。その判断を下す前に「事実の発掘・確定を優先させるべきである」。



最後に、投下から3時間後に撮影された松重美人さんの写真が紹介されているので、触れたいと思います。

広島平和記念館(著者はやたらに”平和”の文字を冠する資料館などが多いと批判をしています)にまだ被爆者の「ジオラマ」があった時です。諏訪氏はこれを否定し、松重さんの「写真の価値を考えてみるべき」と取り上げています。

「注意すべきことに(略)人々を、職業写真家・松重は正面から撮影していない。人々は距離を置かれ、後ろ姿で捉えられている。これは報道取材というものではない。(略)記録するもの自身が被災者で打ちのめされているからであろう。この写真は、そうした記録のなされ方自体をも記録していることで希有のものといえる」

私も人々が正面から撮られていないことを指摘しましたが、【なみだのファインダー】で松重さんが書かれていたことを思い出します。

さらに諏訪氏はこの写真こそ、大展示室の正面に掲げられるべきだと主張します。「展示とは、その前で人々を立ち止まらせ、思考を要請するもの」だからです。