kiuelの節操ない読書歴

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【郵便配達夫シュヴァルの理想宮】祝!映画公開。改めてこの人物に思いを寄せる

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ジョゼフ=フェルディナン・シュヴァル(1836~1924)をどこで知ったのかはもう遠い昔のことで忘れてしまいましたが、2019年12月にフランスで製作された映画がミニシアターで公開されると、偶然ネットで知り、再び彼への関心が高まりました!
 
本を先に読んでから観に行くか、映画が先か、少し悩んで映画を先にしました。なのでこのブログは映画との比較が若干入ります。
 
実は紹介する本書は遠い昔、"幻の本"となっていて、古本屋を何軒も回った記憶があります。それでもなかなか見つからず(T_T)折に触れてはそんなことを繰り返していて、もうあきらめていたところ、何度か通っていたお店で発見しました!しかも安く
(((o(*゚▽゚*)o)))
 
そして、これが不思議なんですが、その後駅前でたまにやっているワゴンセールを覗くと、なんと!2冊も見つけました ォ━━(#゚Д゚#)━━!!しかも結構いい状態で。………あの何年間は何だったんだ(でもそれっきり、また見かけなくなりましたけど)。
 
書籍データ
【郵便配達夫シュヴァルの理想宮岡谷公二 河出文庫 2001年8月20日初版

 

映画の内容は一言でいえば、無口で人づきあいが苦手なシュヴァルの、人間としての成長と描いています。私もこのブログで岡谷氏が教えてくれる、シュヴァルの人間としての部分を主に取り上げたいと思います。理想宮については………解説しようとするのはむしろ愚な感じがするし、芸術的な建築とすればこれは見る人によって変わってくるのが当然だからです。後半に気になったところだけ書いています。

 
幼少の頃は?
 
シュヴァルは後年"ノート"を残しています。けど彼曰く「ごく初歩的な」教育しか受けていないので、文字は別の人物が代筆したのが有力な説になっています(映画では彼自身がペンを執っています)。でも彼は理想宮にみずから"銘文"を刻んでいるので、無教養にしても読み書きがある程度できる事が分かります。「勉強や読書が好き」と言っています。ちなみに、この貴重な資料といえるノートは何冊か存在していて、ブログで引用しているのは、本にならい1911年に成立したものを採用しています。
 
このノートは生前からあった"本当に彼ひとりで理想宮をつくったのか?"というまことに不名誉な疑念を晴らすための「記録」として書かれたものが主なので、当然子供の頃の事などほとんど記されていません。生まれながらの有名人でもない限り(あるいは親がまめに成長記録でもつけてない限り)、このころは分からないのが普通かもしれません。分かっていることは、
 
家族は、この時代によくあったであろう複雑で、父の2番目の妻が母。その人も11歳の時に亡くなります。父は3度目の結婚をしますが、2人の連れ子がいた人でした。19歳の時に父が亡くなり、継母は別の男性と結婚して土地を離れます。翌年「彼の姿はシャルムには」ありませんでした(シャルムはシュヴァルの出生地)。岡谷氏は「家庭生活では恵まれなかったらしい」といいます。
 
"社会人”として世に出た後は?
 
家業は農家だったようですが、シュヴァルは自分には合わないと思ったのか、パン職人になっています(すぐ郵便配達になったわけではないのです)。
 
でも仕事としてはやらなかったけれど、心は農民と思っていたふしがあったらしく、理想宮の壁に『百姓の夢』や『君が通りすがりに見るすべては、一人の百姓の作品だ』と刻んでいます。その頃"最下層"であった農民に対する想いがあったのではないか、と想像します。とても興味深いですね。
 
1858年22歳の時に、最初の結婚。妻ロザリー・ルヴォルは、オートリーヴの旅籠屋の娘で5歳年下。彼自身はパン職人として妻から離れてリヨンなどで働いていて、2年後、妻は「彼の居場所が不明と申告しており、それから数年、彼の痕跡は一切どこにも見出されない」。
 
どうしてそうなったのか、よく分かりません。著者は「土地にも家庭にも束縛されることを好まない、漂泊者じみた男の顔が浮かんでくる」と言います。
 
人間社会に対して、どのように接したらいいのか分からない。戸惑い、逃げ惑う男の姿というか。社会に出ていくための"教育"をほとんど受けられなかった幼少時代が想像されます。もともとの性癖もあったでしょうが。
 
「居所が不明」になってから4年後、オートリーヴに戻ります。長男が誕生しますが、翌年に亡くなり、次の年(1866年)次男のシリルが生まれます。シュヴァルは翌年、郵便配達夫になります。
 
どうして郵便配達だったのか。まず、郵便量が時代とともに増え、すべて徒歩だった配達員の募集が行われ、30歳までの年齢制限を彼はぎりぎりクリアしました。そしてこれが募集に応じた要因の1つだと思われますが、オートリーヴの郵便局は妻の親戚の家にありました。何か導かれているような……。
 
彼は、自分のやりたいことや性格の向きでこの職業を選んだのでしょうか。
 
郵便配達はとにもかくにも、彼にとって天職でした。「人づきあいも、事務能力も求められることはない、(略)終日山野の中に一人でいることができるのである」。1日30キロ以上歩くけど、健脚だったようだし、何より好きなだけ空想に浸れます。
 
導かれてると感じるもう1つの理由が、オートリーヴという土地そのものにあります。南西部のドローム県にある「オートリーヴの周辺は、太古は海底で、地層が古く、奇岩怪石に富む地方だったのである」。シュヴァルのインスピレーションを刺激する奇妙な石が、通勤道に満ちていました。
 
理想宮への第一歩
 
著者は記します「こうして彼は、歩きはじめる」。でも、1873年(37歳)妻ロザリーが死にます。映画では彼女の葬儀の場面から始まるのですが、幼い息子シリルと引き離されてしまいます。なんか、そんな時でさえ人前になかなか出てこれないシュヴァルでは、子育ては無理だという感じて離されてしまうように受け取ったのですが、実際は、郵便配達でほとんど家にいない彼では無理だということだったようです。
 
そして………、1878年9月、宮殿づくりに非常に重量な役割を果たす2番目の妻、マリ=フィロメーヌ・リショーと再婚します。精神的な支えとしてはもちろん、死別した仕立屋の前夫のためか持参金があって、翌年シュヴァルは宮殿を建てる事になる土地を、彼女の持参金をもとに購入します。それにしても彼は奥さんにとても恵まれていますね。理想宮を建設する道筋を彼女たちの出会いによって、つけられているんですU_U
 
再び彼は自分と家族のために歩きはじめますが、岡谷氏は歩くことについて興味深い指摘をしています。歩行は空想(夢想)を誘うものだ。歩きなれた道は、もうまわりの風景に注意が向かず、おのずと「夢想を養い育てる」。することがなくなった思考は、自分の中に向かっていくしかない。著者は夢想が、樹木のように成長して森をつくり、気付くとシュヴァルがその中に完全に閉じ込められてしまっていると表現しています。シュヴァル自身もノートに、夢想しかすることがないと認めています。
 
じゃ何を夢想していたのか、気になるところです。ノートには「想像を絶する幻の宮殿を、並の人間の才能が思いつく限りのもの(洞窟や、塔や、庭園や、城や、美術館や彫刻)を建て、原初の時代の古い建築のすべてをよみがえらせようとしたのだった」。("並の"と言っているところが、彼らしいと感じます)
 
さらに少なくとも10年間は、イメージとして「いきいきと」頭に残ったといいます。でも「このような夢想は病的な想像力から生まれると思われたので、それについてはだれにも話さなかった」といいます。シュヴァルは決して、夢におぼれていた訳ではなく、ある意味冷静に見ていたようです。それとも、今まで人からさんざん変な目で見られてきたので、敏感になっていたのでしょうか。
 
"きっかけ"となった奇妙な石
 
理想宮を造り始めるエピソードとして登場する「つまずきの石」。これについては「夢想が少しずつ忘却の霧の中に沈みはじめていたとき、突然或る出来事がそれを蘇らせた。私の足が石につまずいて、すんでのところでころびそうになったのだ。私は、つまずいた石を間近で見ようと思った。それがあまり変わった形をしていたので、拾って持って帰った」。
 
この言葉は様々な思い込みを覆すものです。映画では思いっ切りつまずいた後、崖を転げ落ち、運が悪ければ死んでるような場面になってました。理想宮の建設に至る大事な場面なので、印象深く演出をしたとも考えられます。実際は「ころびそうになった」程度で、だからこけそうにさせられた石を確認することができたのです。
 
そして「四十歳という人生の大きな節目を三年過ぎて」(この辺の言い回しは彼らしくて面白い)夢が忘却の彼方へ消えようとしていた時だっだ事。執念深く夢想がはりついていた状態だったわけではなく、シュヴァルであっても、現実に生きる生活になりつつあった時だったこと。
 
岡谷氏は、つまずいて建てる決心をしたというより、もと海だったこの地の奇石に、もともと興味を持っていた、と考える方が自然だといいます。だからつまずいたのは単なるきっかけにすぎないといい、「気づかないうちに、ぎりぎりまで彼の心を満たして」いた何かが、始めに行動を起こさせたのは、石のコレクションのためだったのです。
 
1905年のパリの新聞にこんな一節が載っています「つまずいた場所をまた通ったとき、彼はもっとみごとな石をいくつもみつけた。彼はそれらを持ち帰って、いくつも小さなをこしらえた。(略)実に趣きに富んでいるので、彼はうっとりしてしまった」。
 
つまずきの石がダムの堤防のようにあふれさせたのは、はじめは宮殿建設の熱意ではなく、奇石コレクター魂だったのです。
 
理想宮と周りの人々
 
つまずいた1879年(43歳)は、彼にとって人生のつまずきではなく、ターニングポイントの年でした。のちに宮殿の敷地となる場所を1月に購入し、10月に一人娘のアリスが誕生しています。
 
建設が始まると、33年間「彼にとってこれが唯一の、真の生活」となる、仕事と建築だけとなります。
 
映画の初めのシーンでも出てくるように、彼は村で"異端者"扱いでした。理想宮を建てるための奇妙な行動は、やがて村人たちの知れるところとなります。
 
彼らはいくら異端者といっても、最初は石は売るための資材集めかと思っていました。シュヴァルははっきり違うと教えて、「宮殿を建てる」と宣言します。
 
村人たちは「郵便配達シュヴァルの天井に蜘蛛の巣がかかった」(頭がおかしくなった)という噂を広げました。上司である郵便局長にも噂が届いて問いただすと、他の人たちの趣味と同じで楽しみでやっていると言い、意にかえさない風でした。いままでのシュヴァルとは違い、誰にも影響されない強い意志が感じられますね。
 
ここでの局長の受け答えがいい上司の見本というか、関わり合いになりたくないというか「わかった。仕事をおろそかにしない限り、(略)私には無関係だ」と笑ったといいます。
 
村人たちは「狂人」扱いしましたが、彼の"趣味"を根幹から邪魔することはできませんでした。そういう人がいなかったのは不幸中の幸いです。
 
とはいえ、仕事のほとんどは深夜にしていたようで(これがまた怪しげな事をしてるイメージに拍車をかけたことでしょう)、「人々の嘲笑」という不当な迫害を避けるためでした。無理解に囲まれる中で何かをしなければならないほど、辛いものはありません。まだ局長のように無関心の方がましです。
 
私が知りたいのは、シュヴァルがどのような心情で、この局面を乗り切っていったのか。
 
でもおそらく、理解できないと思うのです。ただわかるのは不可能という言葉はないとナポレオンの名言と用いて決意を固めたことだけ。そして岡谷氏は「周囲のきびしさは、彼を仕事へと向かわせた原動力だった」としています。
 
その訳はシュヴァルの親戚の1人が、こんな言葉を聞いているためです「やつらは俺を気違い扱いした。しかし復讐してやる。やつらを駄目にしてやる」-人嫌いで孤独癖のある気の小さい男というイメージが崩壊します。こういう人を怒らすと怖いものです。
 
33年間、宮殿造り以外なかった理由もおのずとわかります。理想宮は人生そのものでした。回廊の壁に後に刻まれた箴言の1つに「人生は戦いだ」とあります。
 
この戦いの「労苦のむくい」とノートに記された出来事が、幸運にも訪れます。彼の生前から理想宮や彼自身が、フランスやイギリスのメディアに取り上げられ、やがて村の名所となって、ヨーロッパやアメリカから見物人がやって来るようになったのです。この人たちと思われる人物や、シュヴァル自身が写った理想宮の写真が何枚か残されています。
 
「見物人の驚きの叫びや、熱狂した人たちの賛辞や、目のきく人々の批評」はシュヴァルを喜ばせたし、村人たちの耳にも入ったでしょう。「やっと世間との緊張関係もゆる」みます。彼は「戦い」に勝利しました。
 
じゃ、妻フィロメーヌはどう思っていたのか?宮殿建設をあまり気にしていない、というか、周りの反応に無関心だったみたいです。ただ、村人たちの不信を買った、石を運ぶのに始めはポケットに詰め込んでいたようですが、当然そこが破れてしまうのが「大不満だった」そうです。
 
妻は教育は受けなかったけど「しっかり者で、些事に拘泥しない大らかな性格だった」「世間と折り合いの悪い夫をかばい、(略)シュヴァルの宮殿建設を眺めていたように思われる」と著者は言います。シュヴァルのような人間を支えるのにふさわしい女性だったのです。現に親子3人の写真での彼女は「息子を見守る母親のような目」をしていて、落ち着いたどっしりとした構えをしています。昔日本にもこんな母親がたくさんいたように思います。
 

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ローム
郵便配達を"定年"後
 
1896年4月、郵便配達を退職、60歳。勤続29年。……これで、宮殿づくりに全力投入できます。ノートには「気晴らしには事欠かない。私はどんなことより、私の夢の実現の方をえらんだ」。
 
でもそれは、決して悠々自適な「気晴らし」とはかけ離れたものでした。引退後も「時間と経済と体力のきびしい条件の下」理想宮は完成されました。
 
30年以上かけて、たった独りで造形を造ったということが注目の的になりますが、「死さえものともしなかった」とノートに記された、気迫というか、究極というか、常人では及ばないものがその造形に表れているから、心が惹かれていくのだとも思います。
 
著者はシュヴァルの"並外れた体力"も取り上げています。確かに仕事の後、深夜に「伴侶」の手押し車で、また何キロ先まで岩石を取りに行くのだから。しかも33年間休まずに。著者も言うようにこの労苦が「かえって(彼の体を)鍛え上げていったかに見える」。記録によれば彼の身長は168cm。フランス人として当時でも小柄。その体にギュッとエネルギーが無駄なくみなぎっていたのでしょう。
 
体力は、食生活でも支えられていて「肉はごくわずかしかとりませんでした。-ジャガイモ、インゲン、青野菜はたっぷりとります。ータマネギや少々のニンニクを加えない日は一日もありません。パンは沢山食べます」と語っているそうで、飲料も水で割った軽いぶどう酒に角砂糖を4,5個入れて飲んでいたそうです。
 
こういうタイプの人って、食にあまり執着がないイメージを持っていましたが、野菜を多くとる、エネルギー源である炭水化物やニンニクもとる、アルコールは水で薄める(この時代、水質があまりよくなかったヨーロッパでは、ワインが水代わりに飲まれていました)と、なんか健康的な食生活を送っていたようです。地元オートリーヴで摂れるものをたっぷりとり「少々の赤葡萄酒のおかげで、いつも健康でいることができました」と言っています。
 
家族との関係は"その時"がきて強まった
 
映画ではなかなか打ち解けず、ぎこちない関係に描かれていた、前妻との息子シリル。息子なりに一生懸命父に認めてもらおうとしていた姿は切なかったですが、現実でも不仲説がありました。でも理想宮をバックに、それぞれの夫妻が一緒に写っている写真もあるし、息子は父の手紙を代筆していたというから、深刻に思うほどではなかったでしょう。
 
仕立屋として身をたてて数年後には、シュヴァル家の隣りに引っ越してきます。シリルは残念ながら父より先に、48歳で結核のために亡くなります。彼には妻と2人の娘が残されました。末の娘の名は、シュヴァルの最愛の一人娘と同じ名前。
 
シュヴァルにとって影響力が大きかったのは、娘アリスだったのは否めません。生きている間も、亡くなった時も。彼は娘のために小さな墓を造り、墓石に「哀惜するアリス・シュヴァル、ここに眠る。1879年10月10日生まれ、1894年6月2日死去」と刻みました。脳膜炎でわずか15歳でした。
 
映画ではよろよろと歩き、叫びながら川へ飛び込み、泳ぐ真似の動作をして、その悲しみを強烈に表現していましたが、これはたぶん人生で初めての感情の爆発だったのではないか。彼の心の向きが大きく変わった場面だと思いました。
 
著者はアリスの死にまつわるシュヴァルの発言として、興味深い出来事を伝えてくれます。隣人が寄ってきたスズメバチを追い払おうとした時、「殺すなよ。戻ってきたアリスかもしれないじゃないか」と言ったのです。
 
岡谷氏は「アリスに対する深い愛情とともに、すべての生物、時には無機物にさえ魂を認めようとするアニミズム的ともいうべき世界の感受の仕方をも示している」。この考えは、日本の自然崇拝ーすべてのものに神が宿るーとどこか共通のものを感じます。アニミズムと岡谷氏は言いますが、シュヴァルは神秘的なものの考え方をする人なのでしょう。それが彼の夢想の発露なのでしょうか。どこまでも飛んでいく夢想が、世間との距離を生んだのでしょう。
 
そして1914年12月、妻フィロメーヌが亡くなり、その後はシリルの未亡人の家に身を寄せました。
 
「エジプトのファラオのように」理想宮に葬られたいとシュヴァル自身は考えていましたが、フィロメーヌも埋葬しようとして、しかし教会と村当局の反対で実現しませんでした。
 
映画ではアリスをそうしようとして、当局とやりあって、大きな机をひっくり返して(相当の体力)、強烈な感情をあらわにしました。
 
現実は約100年前に出された法令により、基本的に墓地にしか埋葬できないことがあり、実は彼も半ばあきらめていたようです。それに当局としては、もはや有名な"観光地”と化した理想宮に遺体を埋めるというのは、考えが及ばなかったでしょう。
 
晩年の日々
 
78歳から86歳まで、彼は自分も含めた家族が眠るための墓廟を建設します。村から1㎞離れた村営墓地まで、たぶん毎日通ったことでしょう。これについてはノートに「私はなお、教区の墓地に自分の墓を造りにゆくだけの気力を持ち合わせていたこと。ここでも私は八年間、身を削って働いた」。
 
「理想宮」という名前は、現地を訪れた詩人の詩から採られたものですが、「終わりなき静寂と休息の墓」という墓廟の名は、シュヴァル自身が名付けました。
 
しかし見学をした著者は「静寂や休息というイメージはどこにもない」といいます。造形のことを言っていると思いますが、シュヴァルの願いが名称には込められていると感じます。ノートに「きわめて独自のもの、世界でほとんど唯一のものとなっている。(略)私が平等の場所で休息したいと思ったのは、永遠のためでもあるのだ」と記されています。
 
墓廟建設以外、晩年については幼年とは違う意味で詳しいことは、あまり分かっていません。著者曰く「建設とあまりに一体となってしまっていたので、建設と切り離して語るべきものはほとんどなかった」。
 
その中で唯一といえる資料は、1908年から10年までの3年間、理想宮のガイドと家の家事も手伝っていた、ジュリア・三クーという女性の証言。ただし、インタビューに答えた時、80歳を超えていたらしく、遠い記憶の中の話です。
 
「仕事を終えると、あの人は手押車と青い前掛けを龕のずっと奥にしまうのでした。私がいたあいだに、三巨人の一人、真中のがひどく傷んでしまいました。縦にすっかりひびが入ってしまったんです。鉄筋を入れて作った木ももう傷んでいました。あの人は困っていました。そして、《直さなくちゃならん、ぼろぼろになっちまうからな》と言うのでした。ー
あの人は、あのセメントのため、いつも指から血を流していました。(略)郵便配達の制服は、ミサに行く時だけに着ました。(略)いつも大きな本を持って歩いていましたー」。
 
 
1924年の春に、彼は古い掛け時計を直そうと、上っていた椅子から転げ落ち、村長でもあった医者が呼ばれました。一生のうちで、初めて医者の診察を受けたといいます。
 
医者もその丈夫さゆえか、それとも諦めか、こう言ったといいます。「別にどうってことはありません。ただとてもお年というだけのことです」。
 
8月17日、シュヴァルは死期を悟ったのか、村長他4人の人物を呼んで、「1911年のノート」の補遺を口述し、文章に偽りがない事を証明するため、5人に署名をしてもらいました。
 
その翌々日、彼は亡くなります。
 
理想宮は「世紀から世紀へ」
 
岡谷氏は気になる事を取り上げてくれていました。シュヴァルの死後の評価です。氏は「人々(観光客)が関心を抱いたのは(略)宮殿そのものではなかった」。むしろ「意志と努力と忍耐のお手本」でしかなかったといいます。文化や精神といったものの対象にはならなかったのです。
 
シュヴァル生前から重要建造物指定の申請を国に出していましたが、無視されていました。著者は宮殿を「一種のげてもの」と世間ではとらえ、「こうした評価は、現在でもほとんど変わっていない」と断じています。シュルレアリストたち、とくにアンドレ・ブルトンが現れるまでは。
 
ブルトンは1931年に理想宮を訪ね、『郵便配達シュヴァル』という詩を書きますが、タイトルこそ彼の名前ですが、内容は建物からのインスピレーションです。"たったひとりで作り上げた努力や忍耐"を表現していません。ようやく、美術や建築として評価してくれる人たちを得たのです。
 
1933年にブルトンは「霊媒的建築と彫刻の異論の余地のない巨匠」とシュヴァルを称えていますが、霊媒的?何かシュヴァルそのものと離れていきそうなので、シュルレアリスムのリンク先へ譲ることにします。
 
さらに1945年に出版されたエッセイで「私をいつも情熱的にとらえてきたもの、それはそれらの作品がその時代に爆弾をしかけること、(略)はるかに莫大な貢物を、人類の共通の資産をかたちづくる渇望やおそれに捧げている』。
 
ブルトンが1952年、21年ぶりに理想宮を再訪していることは「シュヴァルへの関心が(略)持続と深みを持つものだったことの証拠」と岡谷氏は指摘します。正にいつも情熱的にとらえてきたものだったのです。
 
 
1960年代に入って、宮殿を重要建築物に指定するよう求める動きが活発になりますが、国の方は相変わらず。国務省に残されていたという書類には「一切が全く醜い(略)気違いじみた妄想」と記されていたといいます。
 
シュヴァル生前からガイドを雇って対応しなくてはならないほど、見物人が訪れていた"人気スポット"なのに(と言っても、一部には同じように口汚く罵る人はいましたが)、なぜ国はこんなに頑ななのでしょうか?シュヴァルは亡くなっても人生の戦いを続けなくてはなりませんでした。
 
いえ、正確には指定を実現させようとする人々と反対する人々との、戦いなのですが。("渦中の人"となった郵便配達員の「名誉のために」なんと郵政省が動き出したといいます。国の機関の中でも、意見が分かれていたのです)。
 
指定に意欲的な人たちの運動の切実さは、理想宮が「崩壊寸前」の危機にあったこともあります。
 
粗悪な素材と建築技術が皆無だったことが災いして、シュヴァルの生前から傷み始めていたことは、先ほどの三クーのインタビューにもある通りです。
 
ここに、理想宮の運命を決定づけた"もうひとりのアンドレ"、文化担当国務大臣アンドレ・マルローが登場します。彼は役人たちの反対を押し切って、重要建築物に指定します
 
なぜそうしたのでしょうか。上院の文化委員会で、ドローム県選出の上院議員(宮殿の指定のために動いていました)の質問に答えています。
 
「素朴派芸術の建築における唯一の作例(略)。(その)建築を所有するという幸運に恵まれたのが、私どもフランスであるとしますれば、それを指定せず、崩壊するのを待っているなどということはナンセンスでありましょう」
 
上院議員は、観光客がたくさん来るので県のための地域活性として動いていたにすぎなかったのですが、芸術的価値を見抜いて答弁したマルローに「自分の意見が微妙に変化した」と語ったといいます。
 
何はともあれ、1971年から80年まで、国家予算を使って修復が行われまいた。この時の主任建築家が宮殿をつぶさに調査して、「細部まで夢を実現したものでは決してなく、(略)建築方法、彫刻方法には発展があって、(その中で)シュヴァルが自己発見をしている」、つまり「つまずきの石」から雷に打たれたようにインスピレーションが湧いて、33年間終始一貫していた、という訳ではないのです。
 
シュヴァルの思考も技術も、まさに理想宮の造形のように増殖していったのです。
 
激しい保存運動のさなかに「フィガロ」紙に発表された『崇高なる田舎の郵便配達』という時評があります。これは大きな反響があったようで、ひょとするとマルローに影響を与えた(?)かもしれないほど感動的です。その中でシュヴァルについてこう言及されています。
 
「セメントのヒエロニムス・ボス、石灰のミケランジェロ、田舎のフラ・アンジェリコ
 
彼に対しての最高の称賛でしょう。それにしても向こうの人は譬えがうまいですね
+.(*'v`*)+
 
かつてシュヴァルはノートにこう書き残しているといいます「世紀から世紀へと語り継がれるだろう」。彼は自分の名が、理想宮や墓廟とともにどうなってゆくか想像できていたのでしょう。
 

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理想宮の解説
 
シュヴァルの人生そのものだった理想宮。
 
たった独りで造り上げましたが、彼には良き「伴侶」がいました。ノートでそう呼んでいる、石を運ぶための手押車です。これを使って石を運ぶ彼の姿が写っている写真があります。いまは東の正面の龕の中に、当時のまま泥まみれの状態で「貴重な祭具ででもあるかのように」置かれているそうです。
 
シュヴァルは手押車を擬人化して詩を捧げています。「三十余年、彼と労苦をともにした」。擬人化すると愛着が湧くのでしょうか(ふと、大原扁理さんのお金の話を思い出しました)。

造形は影響を受けたものがあったのかについては、いろいろ言われていますが、ぞの1つ(かなり有力な)が「マガザン・ピトレスク」という当時広く読まれていた、絵入り雑誌です。
 
この雑誌には大変異国情緒あふれる挿絵が、たくさん載っていました。本書にも、非常に細密な挿絵のいくつかが紹介されていて、今でもどこか遠くへ連れて行ってくれそうです(ちなみに、私の大好きなJ.J.グランヴィルも寄稿者の1人でした)。
 
映画では職場の同僚から、珍しい絵はがきを横流し(?)してもらう場面がありますが、絵はがきは世界的に(もちろん日本でも)見たこともない風景やデザインを気軽に楽しめる、身近なツールでした。日本での熱狂ぶりについてはこちらが参考になります。

宮殿は4つの面で構成されています。造られた順番で見ていきましょう。
 
〈東の正面〉 
「二十年という長い時間を費し、もっとも心血を注いだ部分で、この宮殿の真の正面」。長方形のプランはこの面と西側が長く、26メートル(シュヴァルの言)あります。ちなみにアイキャッチ画像で見られるのは北と東の面です。見てお分かりのように、造形が一番複雑怪奇で、入り口を入るとすぐ見えるそうです。いきなり度肝を抜かれますね
((((;゚Д゚)))))))
 
あらゆるものが生命体のように集合していて、一見すると混沌としていますが、シュヴァルの「自己発見」の場でもあるので、ある種統一感もあります。
 
著者は「アンコールワットボロブドゥールに近い南方的」としていますが、南方への憧れはこの時代に多くあり、芸術家もイタリアなど旅に出る人は多かったので、シュヴァルだけの感覚ではなかったと思います。ただ彼はもっと東寄りだということでしょう。ちなみに三巨人のモデルはモアイ像と映画ではしていますが、果たして?
 
日本では逆に、西方への憧れ(天竺とか)があって、なんか面白いです。西と東の憧れがぶつかったところが、最高の地なんでしょうか。
 
個人的には、日本の擬洋風建築のように(これも始めのうちは、有識者の間でまともな建築として扱われなかったのですが)ゴタマゼの中に不思議な統一感があって、なんか似てるなぁと連想します。
 
ここで一番初めに着手されたのが、切妻屋根のある「生命の泉」と呼ばれる部分。「こまかい石や貝殻で作られた小さな滝と、それを受ける水盤」で構成されています。屋根の三角の空間に石の枝を広げる「生命の木」が生えます。生命の泉だけで2年の歳月をかけたといいます。
 
著者曰く「宮殿全体の核であり、細部の氾濫に委ねられたその特色を、もっともよく現わしている部分」といいます。
 
著者はさらに宮殿にまつわる数字としてを挙げます。生命の泉の隣りには3人の「洗濯女」がいるし、泉を挟んで反対隣りには「聖アメデの洞窟」に3人の人物、そして「洗濯女の龕」のさらに隣には「三巨人」が聳えます。「シュヴァルは、古代人が三という数字に与えた象徴的な意味をどうやら信じていたらしい」。
 
理想宮を墓廟として考えていましたが、その場所は聖アメデの洞窟の中にあります。多分今も閉鎖されていて、中を窺い知ることはできないと思いますが、地下にある墓所に「一種の岩壁を作り(略)堀り凹めて棺とした」「棺は敷石で覆われ、石と鉄のサラセン風の二重扉で閉ざされた」
 
岡谷氏の調査でも、内部の写真などは1枚しか発見できなかったそうで、それは「厚い石の扉が開かれ(略)地下の闇がのぞき、その闇の中に棺らしい形が見分けられる。(略)秘密のアジトに踏みこんだような、犯罪の現場に立会うような感じ」がしたといいます。
 
当然シュヴァルはそこにいないのですが、私は、その暗い「棺らしい形」の中に、彼が横たわっているんじゃないか、………と想像してしまいました(°_°)「七年間、勤務を終えたあと毎晩、地下の闇の中で、おのれの棺を刻み出す作業に従っていたシュヴァルの姿が浮かんでくる」。
 
〈西の正面〉
造形の嵐だった東の正面(理想宮の主なイメージはこの東側)と打って変わって、西側は、"本当に同じ建物なのか?"と疑いたくなるような、秩序ある佇まいになっています。3枚目の画像がそれです。"表裏"という言葉が適当かどうか分かりませんが、そういいたくなります。
 
秩序だてているものの1つが、両端に、石の手摺りが添えられている、テラスへ至る螺旋階段と、建物を支える列柱と化した円柱。東に比べればそれらが左右対称のイメージを強くしているのです。建築で、左右対称は秩序をイメージする強力なプランです。
 
列柱は明らかにヨーロッパ文化の源流の1つ、ギリシャ・ローマに繋がります。でも、それらを繋ぐアーチも含めると、イスラムだって入りますね。はじめは理想宮のイメージとして語られる異教さは、ここでは払拭されていると思ったのですが、そうでもなさそうです………。
 
東の熱気が流れ込むように、向かって左側(北側)は不釣り合いに造形がひしめいていて、アーチの中にある5つの建物の雛型のうち北側の端にあるものは「ヒンズーの寺院」と名付けられています。そして南側の螺旋階段の上には「モスク」の塔がそびえています。
 
シュヴァルは5つに分けられた建物部分のうちつに対して、短い詩を作って捧げていて、「彼の愛着のほどが偲ばれ」ます。
 
〈南の正面〉
背後に東の正面の塔などが見えるので幻惑されますが、こちらも西のように簡素。「大洪水前の博物館」と名付けられた2つの大きな龕で構成された部分には、シュヴァルが集めた打製石器や化石など、変わった石が収められています。なるほど、「博物館」ですね。
 
私が目をつけたのは、左半分を占める「オークの大木」です。オーク?奇妙に伸びるその姿をモノクロ写真で眺めた時は、サンゴのような造形に見えました。でもこれはシュヴァルの自然に対する憧憬の表われのひとつと考えます。
 
彼はなぜこの木を造ったかについては、何も語っていないそうですが、ノートには「(その洞から)ときには小鳥が、ときには蛇が、またときにはリスが姿を現わす」と記しています。またオークはケルトにとって聖樹であることから、それへの想いがあったのではないかとの指摘もあります。
 
〈北の正面〉
ここでは最初に戻ったかのように、再びあらゆるものが蠢いています。岡谷氏は「東の正面のスタイルを発展させることにより、シュヴァルが自分自身のスタイルを確立した場所」としています。
 
とにかくこちらは現実の、そして幻想の動物(怪物も)たちの楽園と化しています。蛇はシュヴァルが好んで造形したものの1つ。「悪魔の魚(デビルフィッシュ)」と岡谷氏が名付けた"蛸"は「一本一本が蛇とも見えるその足を乱舞させ」、北の正面を造り終えるときに付け加えたそうです。
 
そして墓地にある本当の廟の屋根にも、この蛸は姿を現わします。蛸は何の象徴なのでしょうか?
 
宮殿の主要な部分を見てきましたが、もう2つの見るべきところを取り上げます。
 
〈回廊〉
南北の「迷宮」と呼ばれる部屋をつなぐこの空間も、薄暗い中に様々な浮彫がひしめいています。シュヴァルはここを「エカトンブ」と呼んだそうですが、その意味は「大虐殺、大殺戮」………。彼はその造形を「古代を思い出させる」としています。
 
ここにも、彼がいたる所に刻んだ"銘文"があります。「求めて、四十歳で私は見出した。この夢の宮殿を大地から現出させるために、私は掘った」。
 
「南の迷宮」の天井にはシャンデリアを連想させる華麗な造形がありますが、ここの銘文は自身の幻想に生きたシュヴァルのものとして興味深いです「目的なき人生は幻想である」。
 
宮殿の屋上は庭園になっていて長さ23メートル、幅4メートル。螺旋階段から昇れます。建物の高さが8~10メートルといわれるので、当時はなかなかの眺望だったのではないでしょうか。
 
北の正面が動物の楽園とすれば、ここは"植物の楽園”。著者も「庭園、いや楽園だ」と言っています。
 
シュヴァルは、明るい空が開けたここまで昇って来ると「想像を超えた幻の夢の翼に運ばれている」と言っているといいます。ここでの注目は「生命の泉」の切妻屋根の裏側に当たる壁面に施された、大きな木の浮き彫り。"レバノン杉"と推定されています。言わずと知れたレバノンの国旗にあしらわれているこの木は実は、オートリーヴの名物でもあるのです。
 
真夏のさなかに宮殿を見学しに行った著者は、ガロール川にある巨木の木陰へ、何度も涼みに行ったといいます。シュヴァルにとっては身近でありながら、椰子やアロエやいちじくと同じく、遠い古代の異境を思わせる対象でもあったかもしれません。
 
本書には、ここのさらに小さな螺旋階段を昇って至る「バルバリーの塔」に居て、遠くを見つめるシュヴァルの姿が写る画像が載っています。理想宮の規模は想定を超えたものだったようで、あるアンケートに対し「(こんなに大きくなるとは)思っていませんでした」と答え、頭の中でいつも新たなものが生まれて、次第に大きくなっていったと言っています。
 
 
映画では理想宮は、家族のために建てたことになりますが、シュヴァルが愛してやまない異境や自然や、原始文明への捧げもので、彼は死後、その中に眠ることで永遠に一体化することを願っていたのではないか。これぞ究極のマニアック………と結論づけても、理想宮の前では、凡庸な響きにしかなりませんが。